経験者採用枠にご応募の方へ

小矢部繊維工業株式会社、代表取締役の福岡健と申します。
この度は、弊社求人にご興味を持っていただきありがとうございます。

おかげさまでたくさんの方からお声がけを頂いてまいりました。非常にありがたいことではあるのですが、数が数のためどうしても対応が遅れてしまっている部分がありますこと誠に申し訳ございません。

本来一人ひとりとしっかりとお話をしたいのですが、まずはこの文章を通して弊社のことをご理解いただいた上で、価値観に共感してくださる方々にご応募いただきたいと思い、このような形を取らせていただくことをご容赦ください。

小矢部繊維工業株式会社は従業員30人前後とこじんまりした組織です。

こうした組織では「社長はすべての従業員と一緒に、近い距離感で働く方が仕事がうまく行く」と考えており、常日頃から従業員と一緒に汗をかきながら仕事をしています。

ですから、私のことを知っていただくと、会社全体のこともわかっていただけるのではと考えています。

この文章では、私自身がこれまでどのような価値観を持ちどのような人生を歩んできたかについて、そして現在とこれからの弊社がどのようなものかについてお話致します。

私のこと、そして小矢部繊維工業株式会社について知っていただき、少しでも心に響く部分がありましたら是非ご応募ください。

経営者一家の長男としての原風景
「社員は家族」

富山の小さな街で過ごした学生時代

私が生まれたのは富山県の西側、石川県との境にある小矢部市というところです。人口3万人足らずのこじんまりとした街に、4人兄弟の長男として生まれました。祖父が今の会社を立ち上げ、父が2代目といういわゆる経営者一家です。小さい時はしっかりもので聞き分けの良い子どもでした。おとなしいけど礼儀正しくて、俗にいう長男らしい長男という感じだったと思います。地元の小学校を出て、そのまま学区内の中学校に進学しました。部活はバスケットボールを選び、成績は中の上といったところ。ガツガツと勉強していた思い出もなく、とにかく友達とよく遊んでいましたね。もちろんバスケットボールもしっかり一生懸命練習していましたが、いずれにせよのんびりと過ごしていたと思います。

幼心に残った父の口グセ

経営者一家と言っても17時とか18時になれば父が家に帰ってきて食卓を囲んでご飯を食べて、という普通の家庭だったと思います。当時、既に祖父は会社の経営の実権をほぼほぼ父に譲っていて、父が会社を切り盛りしていました。今思えば父の背中を見て育ったと言えるんでしょうかね…だからといって、経営者としての帝王学をビシビシ叩き込まれて…なんてことは全くありませんでした。

父から仕事の愚痴を聞いた記憶が全くないのですが、それでもはっきりと覚えているのは「従業員は家族だ」という言葉です。当時の従業員はおおよそ30人くらい。その家族を含めると120人くらいでしょうか。社長っていうのはそれだけの数の人生を背負わきゃいけない存在なんだと。

もう一つ、父の言葉で覚えているのは「人間として一番大事なものは“信用”だ」というもの。信用は築くのは大変だけど、無くすのは一瞬だからなと。

晩酌のビールを傾けながら口グセのよう繰り返していましたね。小学生の僕からすると、正直「何を言ってるの??」と、全然ピンと来ていなかったですけど(笑)

大学受験の失敗と就職活動

さて高校受験、というタイミングで私には2つの選択肢がありました。1つは自分と同じくらいの偏差値の生徒の殆どが選ぶ学校。地元でもにぎやかな街の中にあり、通学にも遊びにも便利な場所にありました。もう1つは自転車で片道1時間くらいかかる郊外の学校。当時同級生でこちらを選ぶ人はほぼいなかった記憶がありますし、周りの大人も驚いていたんじゃないしょうか。

2つの選択肢で悩んだ結果、私は田舎の学校を選ぶことにします。街中の学校を選んでしまうと、何だか遊んでばかりいる将来の自分が見えたような気がしたのです。

「俺、たぶん勉強せんなぁ。落ちぶれるやろうなぁ」と。

子どもなりに真面目に考えていた自分を褒めてやりたいですが(笑)、結果としてこの選択は正解でした。毎日毎日チャリンコを漕いでいた記憶ばかりですが、友人にも恵まれ、テニスを選んだ部活動にも勤しみ、充実した学生生活だったと思います。

少しお話が飛びますが、就職活動では「君はガッツがあるね」と片道1時間の自転車通学を褒められたりして。そのために選んだ学校ではありませんから(笑)、予想外の評価ですがそれなりに嬉しかった記憶がありますね。人生というのは正解を選ぶのではなく、選んだ選択肢を正解にしていくことの繰り返しなのかもしれません。

大学は地元の富山大学に進みました。尊敬していた父が卒業した立命館大学が本命で、それがダメなら地域で一番の金沢大学に行きたかったのですが、どちらも失敗してしまって。悔しかったですが、それでも地元の国立大学に合格できたのは、やっぱり高校選びが間違いじゃなかったのかもしれないです。

進学後は基礎スキーという、タイムではなくターン弧やストックワークに点数を付けられるスキーの部活動に没頭しました。いかに速く滑るかを競うアルペンや、技の難易度で争うフリースタイルと違い、どのような技術を使ってどれだけ質の高いターンを行ったかで順位が決まる採点競技です。冬は60日間山に籠ってスキー三昧、夏場はみっちりトレーニングを積み、空いた時間は合宿資金を貯めるためのバイトで埋まる毎日でした。がっつりと体育会系な4年間を過ごしたと思います。

こう振り返ると小学校から大学まで、勉強に遊びにと、それなりに若者を謳歌した学生時代でした。

東京に憧れた就職活動。
思い出す父の言葉

いよいよ卒業も間近になった私は、就職活動をはじめます。大学では経済学部経営学科で学んでいましたが、家業を継ぐつもりは全くありませんでした。もともと小さい時から「社長の子どもだから安泰だね」と周りから言われるのが嫌でイヤで仕方なかったんです。なかなか周りの人には理解してもらえないんですけどね(笑)。

そんな経験もあって、自分の力だけでどこまで行けるのかを試してみたかったのかもしれません。でっかい企業から内定をもらって、バリバリ出世してやるんだ!とメラメラ燃えていました。

父からも「家業を継げ」とは一言も言われたことはありませんでした。就職活動をはじめるにあたり、一応「こんなところを受けようと思う」と話にいった時も、むしろ、繊維業はこれから大変な時代になるから継がなくていいぞという感じで。正直ちょっと拍子抜けしたところもありましたね。

ただ一言、父から「大企業の歯車として生きるのか、小さくても自分を見て、自分を信じてくれる人と一緒にやるのかをよく考えろ」と声をかけられたのを覚えています。自分の力でどこまでいけるか試してる、という気持ちがいっぱいだったその頃の自分は、あまり気にもしなかったのですが。

世間がバブル一色だった当時、片田舎で育った私には、東京にキラキラとした憧れがありました。トレンディドラマで見た街に行って見たかったし、そこに住んで働いてみたかった。就活学生って、その立場だけでいろいろな大人に会えますよね。ここぞとばかりにたくさんの人にお話を聞いたり、させてもらったりしていました。実際の応募も自動車に住宅、銀行、証券会社と、とにかく幅広い業種で出していたと思います。

数か月の就職活動の結果、決まったのは、地元の第二地銀、富山第一銀行でした。結局地元にしたの?と思われるでしょうが(笑)、これには一つエピソードがありまして。

地域で一番大きい銀行も受けていて、実は良いところまで行ったのですが面接の段階ですでにちょっと冷たい感じがあったんです。ベルトコンベアぽいと言うんでしょうか…。「はい、次の方。はい、次の方」と、あまり一つの人格として扱ってもらっていない印象を受けていたのです。

対して、その後お世話になった富山第一銀行では、会う人あう人がみんなとにかく温かくて。人事の採用担当の方から「あなたと仕事ができたら楽しいと思うよ」って声を変えてもらったのも嬉しかったですね。

「そうか、小さくても自分という人間を見てくれるってこういうことか」
就職活動をスタートするときの父の言葉が、すとんと腹に落ちました。大都会への憧れや地域一番企業のステータスとかどうでもよくて、一人の人間として認めてもらえるところで働こうと思えた瞬間だったと思います。

アタリマエだった毎日が
無くなってしまうという感情

銀行員としてのくらしと訪れた転機

銀行に入ったあとは、外回りの渉外を担当しました。いわゆる営業ですね。企業融資や自動車や住宅といったローン、定期預金…銀行が販売している色々な金融商品を、企業や個人のお客さまにご紹介し、買っていただく仕事です。ザ・銀行員という毎日を過ごす中で、あっという間に30歳になっていました。

30歳って、何というか、人生の一つの区切り、みたいなところがありますよね。当時の私もご多分に漏れずふとこれからのことを考えてみました。仕事はそれなりにやりがいがあるけれど、そういえば実家はどうするのかなと。

相変わらず「戻ってこい」なんて一言も言われていませんでしたが、父も当時60歳。いつまで元気で働けるかわかりませんでした。

昔から「この会社は俺の代で終わりで良い」と言っていた父。このまま放っておけば近い将来、家業は畳むことになるでしょう。祖父が立ち上げて父が守ってきた会社は跡形もなく無くなってしまうんだな…と思うと、今まで覚えたことのない感情になりました。

その昔、父が酔うたびに口にしていた、家族のような従業員たちはどうなってしまうんだろう。

それぞれ守るものを抱えた人たちが、父の引退と共に仕事を失ってしまう。小矢部繊維工業株式会社という看板も無くなる。みんなで一つになって過ごしてきたであろう毎日も無くなると思うと、それまで真剣に考えてこなかった事実をリアルに感じるようになりました。

自分が将来を投げうって従業員を救うんだ!というような、差し出がましい気持ちではないし、そもそもそこまで私ひとりで抱え込む必要もなかったのかもしれません。

ただシンプルに、生まれてこのかた当たり前のようにあった小矢部繊維工業株式会社という組織に、人生で一度も飛び込むことをせずして無くしてしまっていいのかなと考えるようになったのです。片田舎の街で会社の跡取りという自分とよく似た環境を持つ人は、そうそう周りにいません。相談することもできずに迷った私は、思い切って父に話をすることにしました。

案の定父は、もし私が継がなかったら自分の代で会社を畳むことも選択肢の一つとしてあったようです。
「本気か?繊維は本当に厳しいぞ。甘くないぞ」
険しい表情で、何度も、そう確かめられました。
もちろん、自分も何度も考えたうえで出した結論です。覚悟をもって入社を決めました。

「話してみてよかった。そうでなければこの会社はなくなるところだった」。
なぜだかホッとした自分がいることに気づきました。打ち明けてよかったなと。

後に母から聞きましたが、父はその夜、上機嫌だったようです。

こうして私は富山第一銀行を辞め、小矢部繊維工業株式会社に入社することになりました。

正反対の環境にとまどう日々

職人肌の従業員と跡取りの自分

当たり前のことですが、新入りの私は現場を覚えることからのスタートです。小矢部繊維ではトリコットという編み方でつくられる生地が主力製品です。糸をビームという筒状の道具に巻いて、それをいくつもまとめて機械に並べて、編んでいきます。こうして生地をつくっていく編立という作業が最初の担当でした。

糸切れなど細かなトラブルがつきものなのですが、これがもう勝手がわからない。つい昨日まで銀行員だった自分にとって全くの別世界でした。

銀行だと入社して最初の数か月はみっちり研修があります。色々なことを座学で覚え、仕事のベースを身につけてはじめて各支店に配属になります。配属先では先輩や上司にくっつきながら仕事を覚えて、やがて小さな作業を任せてもらえるようになり、間違いがあれば一つひとつフィードバックをもらって成長していきます。もちろんわからなければ丁寧に教えてくれるわけです。

一方、当時の小矢部繊維の現場には、仕事は見て覚えろ。という文化がありました。職人肌といいますか、いわゆるべらんめえ口調の人なんかもいて、ベテランさんなんかは、話しかけづらい雰囲気だったりもするわけです。

「これはエライところに来てしまったかもしれない」と思いました。身近だと思っていた実家の工場が、こんなに厳しい職人の世界だとは想像もしていなかったですね。従業員は家族じゃないのかと(笑)

でも今思えば仕方のないことかもしれません。普通、現場の従業員からすれば「社長のボンボンが気まぐれで俺たちの職場にやってきた」と感じるでしょうね。ましてや地元の国立大学を出て昨日まで銀行員をやっていた人間です。なおさら頭でっかちな奴に見えていたのでしょう。勇気を出してこちらから思い切って話しかけてみても、何をコムズカシイこと言っているんだという反応をされてしまうこともありました。

もちろん意地悪をされるなんてことはなく、仲が悪いこともないのですが、何となく溝があったような気がします。

銀行員時代は先輩も後輩も同僚もみんな大学卒。だいたい似たようなキャリアで育ってきた人たちばかりだったので、1言えば3も4も通じるのが普通でした。しかし、ここではそうはいきません。目の前には育ってきた環境がバラバラの人たちしかいませんでした。同じ目線に立つということがこんなに難しいことだと思いませんでしたね。
跡を継ぐとかそんなことは置いといて、私はまず小矢部繊維においては自分こそが異質な存在であることを認める必要がありました。その上で、自分がどんな人間か、仲間として認めてもらうに足る存在であることをわかってもらう必要があったのです。

それには、今自分にできることを1つずつ重ねていくほかありません。汗をかき、必死で仕事を覚えていきました。すると、何か月か経つうちに、ベテランさんとの距離も次第に縮まっていきました。「俺も一緒にやろうか」って声をかけてくれたり、逆に「大丈夫か?」って手伝ってくれるようになったり。一緒にお酒を飲むこともできるようになりました。こうして私は、小矢部繊維のみんなに次第に仲間として認めてもらえるようになっていったのです。

その後、工場の現場も踏みながら次第に営業も行うようになります。そうした毎日が10年くらい続いたでしょうか。次第に組織づくり、財務、人事といった経営に近い仕事を担当するようになっていきました。

父の死によって3代目社長に就任

2013年12月に父が亡くなり、翌2014年1月、私は小矢部繊維工業株式会社の3代目社長に就任しました。生まれてはじめて社長になったわけですが、今思い出せば比較的落ち着いていたように思います。

これまで会社を支えてくれていた人たちは引き続き残ってくれましたし、資金的にも落ち着いていました。焦って何かを決めたり動いたりする必要がなかったのです。社長が変ったからといって、急に何かを変える必要はない。そう思える余裕がありました。

簡単に言いますが、これって本当にすごいことです。ヒト、カネ、仕組み。全部を揃えたうえで会社を次の世代に渡す。10年社長をやってみて、経営者としての父のすごさをしみじみと感じます。

小矢部繊維工業株式会社とは

独自技術を持つトリコット生地で
50%近い国内シェア

小矢部繊維工業がつくっているのはトリコットという生地です。

生地は織物と編物に分類されます。織物は経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交差させてつくるものを指し、直線的に糸が走っているので伸びが少なくしっかりした生地に仕上がります。一方編物は、経(たて)か緯(よこ)のどちらかの方向に進みながら糸を編んでいくものを指し、その分伸縮性に富んで肌触りが良いことが特徴です。

トリコットは経(たて)に糸を編む編物に分類されます。セーターや手袋などの用途に使われる緯(よこ)編みに比べると伸縮性はやや劣りますが、織物よりはよく伸び、ほつれにくく形状が安定しているという長所があります。

小矢部繊維工業は、トリコットの中でもダブルトリコットという生地を得意にしています。ダブルとは表と裏の2列で編むことを指していて、両面とも表面になるので肌に優しいというメリットがあります。編物特有の形状安定性と肌触りの両方を持ち合わせているため女性用インナー等に使われ、小矢部繊維工業のダブルトリコットはブラカップ用のものが主を占めています。

ダブルトリコットは技術的に難しく、国内では機械そのものの数が限られています。日本国内でこれに注力している工場はほとんどありません。さらに私たちは独自の技術や工夫を重ねて随一のポジションを確立していきました。

今や小矢部繊維工業はダブルトリコットの市場において50%に迫る国内シェアを獲得しています。こうして当社でつくられた生地は東レなどのメーカーに納品され、製品になって世界各国の消費者のもとに届けられていくのです。

ほんの少しの工夫の積み重ねで
外国製との差別化は図れる

私たちの商売はいわゆるBtoB。メーカーさんがお客さまなので、消費者に直接何かを届けることができません。それどころか服をつくる最終成形という工程を担当しているわけでもないため、自分たちがつくる生地がどのような服になっていくのかも見ることができないという宿命があります。

また、使用されるのが婦人服の裏地であるということもあり、単価が安いという特徴もありました。昔はまだそれでもよかったのですが、価格勝負になると今では外国製にシェアを奪われてしまいます。きちんとした対価を頂けるような品質を常に保てるような競争力を持たなければなりません。

海外に勝てるだけの競争力。それには目の飛び出るような金額の設備投資や誰も考えたことのないような斬新なアイディアが必要でしょうか?

私はそうは思いません。

例えば取引先のメーカーに、この生地はどんな服になるのですか?どのような時に着るのですか?と聞くことからはじめてもいいと思います。私たちは生地のプロフェッショナルですから、その用途なら透けない方がいいですよね。じゃあこの糸にしませんか?という提案ができます。

おかげさまで資金的には余裕があるので、先方に納品から支払いまでをせっつく必要もありません。先方が決算をまたぐ間、完成した生地を少しの間倉庫の空きスペースに置いておいてあげるだけで感謝されることもあります。

ほんの少しだけ掘り下げた質問を相手にしてみる。自分たちからしたら何てことのない手段でも相手が喜んでくれる解決策を提案してみる。それだけでも顧客の態度はがらっと変わります。こちらへの信頼感が上がり、何かにつけて頼っていただけるようになるのです。

いつかは「OYABE」の名前を出せる商品を

正直なところ市場環境は必ずしも楽観できるものではありません。電気代や原料価格は上がる一方で、価格に転嫁しきれていない部分もあります。でも、ピンチはチャンス。こんな時だからこそ活かせる機会がきっとあるはずです。

例えば自分たちで原料を仕入れ、強みを活かしたアパレルブランドをつくったらどうでしょうか。現在私たちは原料の糸をメーカーさんからお預かりし、加工することで料金を頂くいわゆる加工賃ビジネスです。

ここから自分たちで販売を行うモデルに変化していくのです。

肌触りのよいダブルトリコットの技術を持つ私たちなら、世界中の女性の肌に優しいアイテムを生み出せるかもしれません。仕入れや在庫の問題などクリアするべき壁はいくつもありますが、不可能ではないと考えています。

いつの日か「OYABE」の名前が出た服を街中で見かけるようになる。私は、そんな夢を持っています。

目指すはカメレオン。
世の中の変化を捉える柔軟な企業に

今は本当に社会の変化が激しい時代です。そして事業の究極の目的は、継続していくこと。生き残り続けることです。そのためには、常に外の世界にアンテナを張り、変化の兆しを逃がさずに行動しなければなりません。

小矢部繊維工業は今までも、絶え間なく自分たちを変化し続けるよう、トライ&エラーを繰り返してきました。例えばこれまで非常に手間がかかる工程だった糸掛けをロボットに担わせたり、編みあがった反物を自動で検査場まで運ぶ搬送機を導入したりと、人の手でまかなっていた作業をどんどん機械化しています。しかも、これらのロボットはそのほとんどをオリジナルで造っているのです。ものづくりの会社だからこそできることですよね。

こうした技術で工場はより少ない人数で稼働できるようになり、週休2日制も可能になりました。

近年はグループ会社でショッピングセンターに土地をお貸しする不動産賃貸業やSDGSの取組への一環として太陽光発電事業をスタートさせました。複数の事業による収入を確保することで、より経営の安定性を増していきます。

このように働き方や活躍の領域を変えながら、時代に応じた生き残り方を選んでいく。カメレオンのような企業を目指していきたいと思っています。

小矢部繊維工業で輝ける人とは

経験者がほぼいない領域だからこそ、
大事なのは人間性

先ほどもお話した通り、小矢部繊維工業は希少な技術を持った会社です。はたから見たら特殊な仕事に見えるでしょう。

読んで頂いている皆さんも、お友達やご家族に「繊維工場でトリコット生地を編んでる」という人は多分いないですよね(笑)。

だからこそ入社した時は全員が未経験者。だから、経験の有無は気にしません。私自身が銀行出身なのですから、経験者求む!なんていう気はありませんよ(笑)

むしろ大切なのは人間性だと思っています。未経験者だからこそ、しばらくの間は必ず誰かに教わりながら仕事を覚えていくわけですよね。素直さや真面目さは必要です。今の職場も十人十色。色々な人がいますが、この部分を持ち合わせているという点では全員共通しているんじゃないかなと思います。

といっても、別に特別なことを求めるつもりはありません。わからないことはわからないと言う。目を見て「お願いします」「ありがとうございました」が言える。これができればまずはやっていけるかなと思います。

まずは現場を覚えるところから。
希望に応じて社外でも活躍して欲しい

入社後しばらくは現場の仕事を覚えて頂きたいなと思います。ものづくりの会社ですから、やはりここを知らないと他の仕事もむずかしい。

きっと最初は「こんなこと私にはできない!」って思うかもしれません。僕がそうでしたから(笑)。

扱っている糸も細いのでトラブルも少なくないんです。それでも反物を運んだり、切れた糸を直したり、巻いた糸をクレーンで持ち上げたりと出来ることを少しずつ増やしていってほしいなと思います。

逆に、すぐに成長成長!と急かすつもりもありません。石の上にも3年といいますが、ゆっくりと仕事を覚えてもらえたらOKです。じっくりと腰を据えて仕事をしたい人、安定して働きたい人には向いているんじゃないかなと考えています。

ご本人の希望にもよりますが、現場を覚えたら営業として会社の外に出ていく仕事もご用意しています。社長の僕もいまだに営業に出ているので、一緒にお客さま周りとかしていきたいですね。慣れてきたらどんどんとお客さまをお渡していきますので、自分の力次第で挑戦できる環境も提供できると思います。

信頼される人になれる環境が揃っている職場

小さいとき、父から繰り返し聞かされていた「人間として一番大事なものは“信用”だ」という言葉をお伝えしました。今になってその意味が分かるような気がします。仕事はチームワーク。だからこそ、この人と一緒に仕事がしたいと思える人にならないと結局自分の仕事も上手に回りません。別に親友になれと言うつもりはありませんが、「この人とは付き合いたくないな」と思われるようだと難しい部分が出てきてしまいます。

愛想が悪くてもかまいません。無理に笑顔になる必要もなくて、大事な時は目を見て話す。それができればスタートは切れる職場です。あとは一緒に働いて、一緒に働くからこそつくれる信頼を積み重ねてもらえたらと思っています。コロナ前は懇親会をしょっちゅう開いていました。飲み会が多い会社ですよねって言われたことがあるくらい。最近はあまり開催できていないけれど、機会があれば再開したいです。

特別なことは出来なくても、一歩ずつやれることを増やしていく。そんな道のりは皆さんと一緒に歩んでいけたら嬉しいですね。

最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。ご縁ができますことを心よりお待ちしております。
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